漱石山房記念館(新宿)開館予定は?イベントや展示も気になる!アクセスも調査!

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夏目漱石は熊本にもとてもゆかりのある人物なので今回、東京都の新宿区立漱石山房記念館が夏目漱石150周年を記念して開館するとの情報が入ったのでリサーチしてみたいと思います。

漱石は、新宿区で生まれそしてまた、晩年を新宿で過ごし生涯9年間を現在の新宿早稲田南町の「漱石山房」で過ごしました。

この「漱石山房」には、当時の文人が集まるサロンのような役目を担っていたのです。しかし、1945年(昭和20年)に遭った空襲によって残念ながら焼失してしまいました。

その後、敷地の半分を「漱石公園」として、半分を区営住宅(当時は都営住宅)として存在していました。

イベントや展示も気になる!

記念館は、地上2階、地下1階の延べ床面積1276平方メートル

記念館では、漱石に関連する展示資料を常設したり、漱石が残した文学作品を蔵書したりして、約130点ほどが展示されます。

また、漱石にかかわりのある人物や文学を企画展示したり講座、朗読会、映画会などのプログラムがあります。

その他、漱石の著作や関連本を置いた図書館を設置したり、カフェもあるようです。

それからオリジナルグッズも販売されます。

展示する予定の資料は、「道草」「明暗」の現行の草稿、漱石の弟子に送ったはがきや漱石の書籍の初版本の多くを展示するようです。

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漱石山房記念館(新宿)開館予定は?

そこで、気になる記念館の開館ですが平成29年9月24日に開館予定です

このオープンに合わせて、愛媛県東温市の「坊ちゃん劇場」で上演中のミュージカル「52days~愚陀佛庵(ぐだぶつあん)、二人の文豪~」が9月27日、28日の両日、新宿文化センターで計3回上演されます。

「52days~愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」の内容

愛媛県松山市にある松山中学校に漱石が英語教師として赴任し、その当時住んでいた下宿愚陀佛庵(ぐだぶつあん)に帰省してきた正岡子規が転がり込んで来て、52日間2人の共同生活が始まります。その時のエピソードをユーモアたっぷりに描き、その後、日本の近代文学を支える青春物語が上演されます。

自分の名前を残す

建設費や資料購入には膨大な費用がかかるため、新宿は、7月1日(月)から「夏目漱石記念施設整備基金」を設置して寄付を募っています。

目標は2億円だそうです!

寄付をした人への特典として、記念館の整備状況や区が主催する関連イベントのご招待が送られてきたり、新宿区の公式ホームページや「広報しんじゅく」などに名前が掲載されます。

また、10万円以上の寄付で、館内に設置される銘鈑に名前が記載されるようになります。これは一生ものの記念になりますね!

夏目漱石の生涯

1867年2月9日生まれ

父親は高田馬場一帯を取り仕切る名主で、生活は裕福でしたが、母は子だくさんだったので漱石は望まないこどもであったようです。

漱石は、生まれてすぐに里子にだされますが、姉が不憫に思い実家に連れ戻します。でもまた、1968年に養子に出されます。しかし漱石、7歳の時にその養子になっていた夫婦がうまくいかなくなり、養母と共に一時生家に戻ったのでした。

一時期、漱石は実の両親を祖父母と思っていたようです。養父母の離婚によって9歳の時に生家にもどるのですが、実父と養父が対立をしてしまい、漱石は21歳になるまで復籍できませんでした。

そして、漱石が朝日新聞社に入社してからも、養父からお金の無心をされるなど幼少期から漱石は波乱万丈な人生を送ってきたのでした。

学生のころはとても優秀で特に、英語はずば抜けてできたようですね!

1889年 生涯の友となる正岡子規に初めて出会う

1890年 帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学

1892年 早稲田大学の講師をして自らの学費を稼ぎ始めました

1893年 漱石は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師となりました

1895年 愛媛県尋常中学校(旧制松山中学校、現在の松山東高校)に赴任

1896年 熊本市の第五高等学校(熊本大学)の英語教師に赴任

この時、親族の勧めもあって鏡子という女性と結婚したのですが、結婚3年目に慣れない環境と流産という経験をしてしまいヒステリー症がひどくなってとうとう白川井川淵に身を投じてしまったのです。

家庭以外では、この頃の漱石は、俳壇でも活躍をして名声を上げていったのです。

1900年 文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられました。

1901年 科学者池田菊苗と2か月間同居し、新たな刺激を受け一人こもり研究に没頭しはじめます。このころ精神の病に侵されていました。

1903年 第五高等学校(熊本大学)教授を辞任 同年に第一高等学校と東京帝国大学の講師となる。

1904年 明治大学の講師を務める。

この年に精神を和らげるため処女作「吾輩は猫である」を執筆。その後「倫敦塔」や「坊ちゃん」と立て続けに作品を発表して人気作家としての地位を確立しました。

1907年 朝日新聞社に入社

1910年「修繕寺の大患」と呼ばれる生死ををさまよう800gにも及ぶ吐血をし、生死を彷徨いました。

1916年 49歳10か月没

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アクセスも調査!

東メトロ東西線早稲田駅(1番出口):徒歩 約10分

都営大江戸線牛込柳町(東口出口):徒歩 約15分

都営バス(白61) 牛込保健センター前下車:徒歩 約2分

駐車場は無いので注意してくださいね!

おわりに

夏目漱石をリサーチしてみてこんなにも波乱万丈な人生を送っているとは今回初めて知りました。精神不安定な時期もあり、とても苦しんだ人生だったにも関わらず沢山の偉作を生み出している漱石!ますます興味がわいてきました是非、私も漱石山房記念館に足を運びたいと思っています。

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